本当に絶望した場合、泣いている余裕はない

どうもwild-manです。先日の日記の通り、昨日は秋葉原に行ったのですが、今日はその帰りの電車の中でのお話。偶然、一緒に秋葉原を歩いたtakaに話した事にもリンクする部分もあるので書くことにしました。ただ、昨日の日記とは、金魚なら死んじゃうぐらいの温度差があるので注意。あと、感情的になって書いた文章だから一人称やら文末やらがバラバラ。普段から日本語が怪しい日記ではあるけど、普段以上に怪しくなっているから気にしないで。



帰りの電車で、見るからにバカそうなカップルが乗ってきた。時刻は22時も過ぎ、疲れたサラリーマンが殆どの電車の中では若干ずれた存在。まぁ、東京という場所で考えれば普通ではあるが。予想通り電車の中でいちゃつき始めた。まぁ、目障りだと正直思ったが、それは単に彼女がいない私のやっかみが引き起こすものだから仕方がない。自分の努力なり、センスなり、生まれて持ってきたものなりが足りないのである。節度が無い彼らも悪いが、俺も悪い。


彼女「なんかこの頃調子あんまり良くないんだよね〜」
彼氏「マジで?俺、お前が病気とかになったらマジで絶望して泣いちゃう。マジ、ずっと泣いてるって。」


うむ。ここで思ったのが今日のタイトルの言葉である。


ここで豆知識だが、白血病は治すのが難しい病気ではあるが、法律的には重病に指定されていない。入院して、他の人の病気の話を聞いているうちに、急性骨髄性白血病の自分以上に苦しい病気と闘っている人のことを見たり聞いたりしている。テレビで、何百万人に一人ぐらいの奇病で、治す方法も確立されてないような病気と闘う人のドキュメンタリーを見たこともある。


だが、残念ながら良くも悪くも人の気持ちというのは思った以上に伝わりにくいもので、確かに自分よりも辛い病気かもしれないけど、自分が白血病を宣告されたときに感じた絶望感というのは、私以上に辛い病気を宣告されたときの彼ら、彼女らが受けたショックと負けず劣らず凄いものだと思う。もちろん、それらのショックを比べる方法などないし、比べること自体が無意味であると言うことも分かった上での発言であるが。


白血病という、なかなか重みのある病気と闘っている人にお見舞いに行くとなった場合、あなたはどのような顔でその人にお見舞いに行くだろうか。私のところにお見舞いに来てくれた人は、殆どの人がこの日記を読んでおり、私の今の状態や心情をある程度読み取った上で来ることが出来たので、みんな明るい感じでお見舞いに来てくれた。だが、日記やブログは書いておらず、入院して殆ど間もない状態で、イマイチ体調や心情がよく分からない状態でお見舞いに行くとなったらどうだろう。恐らく、本人は落ち込んでいるだろうから明るく振る舞った方が良いのだろうか、それとも明るく振る舞うことはむしろ本人を傷つけることだろうから心配していることを正直に表した方が良いのだろうかと、悩むだろう。少なくともtakaは悩んだと話してくれた。


で、これが患者の立場からすると、もちろん人にもよるだろうが、自分が落ち込んでいるところなんて心を許している親友だろうが、家族だろうが見せたくない。多少落ち込んでいようが、多少調子が悪かろうが無理してでも明るく振る舞う。余計な心配はさせたくないから。


まぁ、自分のことを分かっている人ならそれが無理して明るく振る舞っていることなど分かるだろう。ただ、見舞いに来た側が無理して明るく振る舞っている患者に向かって、そのことを指摘できるかと言ったら恐らく出来ないし、しないと思う。そして、相手に合わせて明るく振る舞うと思う。心配していることを表に出していったら、かえって患者に負担になってしまうんじゃないかって思うから。


だから泣いている余裕なんて無いと思う。むしろ無理してでも笑うことになると思う。ただ、泣かないわけではない。


病気になって一番ショックを受けたのは家族だと思う。妹は点滴に繋がれた兄(つまり俺)を見て泣いた。だが両親は最後の最後まで涙を俺には見せなかった。多分、どこかでは泣いたのかもしれない。ただ、息子に余計な負担をかけたくなかったから涙は見せなかったのだろう。俺も結局他人に涙を見せることはなかったし、ネガディブな事は家族にも友達にも主治医にも看護師にも殆ど言わなかった。唯一言ったとすれば、移植をするかしないかを悩んでいたときに、担当の看護師に漏らしたあの悩みぐらいだったと思う。


俺も泣いたこともあった。夜、自然と涙が出てきた。お見舞いに来る人はしばしば「頑張って」と入院患者に声をかける。それ自身は悪いことではない。そういう言葉を掛けてしまう気持ちも良く分かる。ただ、頑張ってと言われても頑張りようがないのである。自分自身の努力でどうこうなる病気なら、既に頑張っている。泣いて治るのであれば毎日無くし、お百度参りをすれば治るのであれば、100回どころか1000回してやったって良い。だが、そんなのは無意味。現時点での医学ではサイコロの出目が偶数か奇数かを当てるように、薬が効く効かないは確率でしか説明できないのである。自分の人生が単なる運に任されており、自分の努力ではどうにもならないという不甲斐なさ、そして失敗した場合、最悪死が待っているという不安に涙が出るのである。だが、これを他の人には見せない。見せたところで心配をかけるだけで、それ以上どうにもならないからである。



話を思い出話から、目の前にいるカップルに戻すが、彼女が「絶望的な」病気になったとしたら、彼氏の方は宣言通り彼女にずっと涙を見せ続けるのだろうか。二人そろって絶望を嘆き泣き続けるのか、片方だけが泣き、もう片方を励ますのか、それとも二人そろって小さな希望を目指し頑張るのだろうか。アフラックのCMの「ガンから逃げるな」というメッセージ。みんな逃げられるものなら逃げたいだろうが、逃げられないから戦うしかないんだよ。男は逆境の時にこそ強さを見せるというのが格好いいとも思うのだが、泣くという方法を選ぶ彼氏に彼女がいるのだから、モテない私が考えていることは格好良いことではないのだろうか。うーん、美的感覚がずれている私は努力したところでもう暫く彼女は出来なそうだな。



最後に「絶望」とは書いてはあるが、私には骨髄移植という希望があったから、全ての望みが絶たれた訳ではなかったから、正しくは「絶望」ではなかった。だから私は真の意味での絶望は経験していない。もちろん真の意味での絶望なんて経験したくもないが、私はその「絶望」を目の前にしたときに、どのような行動を取るのだろうか。この日記の読者であるあなたはどのような行動をとると思う?