明日退院します

ホスピタルからこんにちは。どうもwild-manです。いきなりですが明日退院します。また1週間程度の一時退院みたいなものですが家に帰れます。まぁ、帰ったところで、あまり外に出ないという医師の指示もあるため、一日中家でネットという入院時と変わらない生活を送ることになるでしょうが、今回もそんなの関係(ryってな感じで、秋葉原には行こうと思います。


それから、退院の説明と同時に骨髄移植の説明も軽く受けました。まだ正式にやることが決まったわけでもないし、ドナーさんが見つかったわけでもないですが、順調に進んでいるとのことです。まぁ、詳しいことが決まったらブログに書きたいですが、骨髄バンクの規約で、骨髄提供を受けた日付や移植を受けた施設等の情報を公表することは禁止されているので、実際に決まった場合、書くことがかなり制限されると思うのですが、その辺りはご理解ください。



とりあえず決定したわけではないとはいえ骨髄移植もだいぶ現実味を帯びてきました。発病するまで、移植なんて他人事でしたがまさが自分がされる側になるとは予想していませんでした。

神様とかに対しては世間の一般的な行事で行われる程度の信仰心しか持ち合わせていない私ですが、流石に死についても考えなければならないような病気を持ってしまうと、運命とかそういうのも考えるようになります。で、宗教、とりわけ仏教では欲望というのは良いものではないそうです。そう考えたとき、私が行っている治療って何なんだろうなぁとか思います。運命というのをどの程度まで考えれば良いかは分かりませんが、私が生きている場所が、今から100年前の白血病の治療法が全く確立していないような時代だったり、アフリカとかの医療施設がないような場所だったりしたら間違いなく死ぬ運命にあったでしょう。

運命というものが時代やそれに伴う科学技術を考慮しなければ、今私が行っている治療って自分が"生きたい"っていう欲望の下、運命に逆らって行われているものだと思うんですよね。ましてや移植となると、他の人から命の一部をもらってまでも生きたいという欲にもなるんですよね。果たしてこれは悪いことなんでしょうか。

涼宮ハルヒの憂鬱朝倉涼子(CV:桑谷夏子(←ここ重要))の言葉に「有機生命体の死の概念が理解できない」ってものがあります。もちろん私は死というものを体験したわけではないので理解はしていませんが、10月上旬の白血病を告知されたあの日、少しだけ垣間見たような気がします。あのとき感じだ、絶望、恐怖、悲しみ、悔しさ・・・すべてをひっくるめた感じの人間の負の感情、これが"生"を失うことへ感じる気持ちなんだなぁって今になると思います。

病気になって3ヶ月以上が経ち、入院生活も当たり前になってきましたが、時々、白血病が告知された日のことを夢に見ます。20歳にもなって恥ずかしい話ですが、決まって朝起きると泣いています。希望を持って治療に励んでいるつもりですが、心のどこかで、あの日感じた恐怖に怯えているんでしょう。この絶望から逃れたいと思うことは当然のことであり、それを死して逃れるのではなく、生きて逃れようという姿勢に何の罪があるのでしょうか。

生きて夢を追うのが罪ならば
神が定めた運命も越えよう
真実の扉が開く日まで
愛が剣に変わる十字架はdestiny

原罪のレクイエム - KOTOKO


色々感じるものがあります。病気にかかるまで"生きる"ということが欲であることを認識しておらず、病気になり"生きる"ことに常人以上に欲を持つようになった私にはなおさらかもしれません。




※何となく感じていることを書きながら整理しようと思いましたが、結局整理できず、その上、オタクなネタが時々差し込まれているのでさらに意味不明になってしまいました。スミマセン。