『涼宮ハルヒの消失』を見た

どうも富良野くまりんです。今日は、みなとみらいのワーナー・マイカル・シネマズで『涼宮ハルヒの消失』を見てきました。これから感想を書きますが、原作自体は6年前の小説ですし、映画のストーリーも原作のままなので平気でネタバレを書きます。6年前に出版された作品に対してネタバレが〜とか言われても困りますが、それでもネタバレが嫌な人は読まないで下さい。




端的に感想を述べるとすれば、凄く良かったの一言ですね。『消失』自体は、みんな大好き長門有希の中心の話です。小説を読んだときには、長門の感情が僅かに表れるのに萌えたり感動したりしたものですが、劇場版ではもっと凄いです。3時間(実質2時間半ぐらい?)をかけてたっぷり、丁寧に描かれています。


原作では挿絵も相まって、世界改編後の長門キョンに文芸部の入部届を差し出すシーンが印象的でしたが、劇場版では、キョン長門へ入部届を記入せずに返すシーンの表情の方が殺人的でした。あれはヤバい。他のちょっとしたシーンでも、間や表情の変化を丁寧に描いているので、胸に響きます。


散々ハルヒや彼女が巻き起こす事件に愚痴を言っていたキョンが、本当にその生活が嫌だったのか、つまらなかったのかを自問自答するシーンは、まさに表現の勝利って感じですね。改札という一方通行のゲートを通るか通らないか、キョンを引き留めようとする長門、改札を通るためのプログラム、自分で自分の頭を踏みつけるキョン、あれを見て感じた気持ちを表現する文才を持ち合わせていないのが残念で仕方ないですが、凄いですね。


今になって思うと、軽く炎上したエンドレスエイトの果てしない繰り返し放送も、劇場版への布石だったんでしょうね。一人、ハルヒの作り出した異常世界への対策を繰り返してきた長門。小説版では、読んでいる分には苦労した感じはなかったのですが、アニメ版では、長門と一緒に視聴者も苦労しました。あれは長門が繰り返した果てしない夏休みを体感するのには十分でしょう。長門が暴走へと至った原因をより理解するために、あの繰り返しが存在したとすれば、随分と思い切った演出です。放送中は批判めいた発言をしましたが、あれは撤回しないといけませんね。(ただ、DVDは同じ価格なんだよね・・・流石にそれは酷いんじゃないかな)


それから、エンディングテーマの歌詞原案や映画シナリオ監修に原作者「谷川流」の名前がありましたが、とりあえず存命なんですね。いつになったら新刊出るの?とか言うより、角川と協議して、角川監修の元、他の人に続きを書いてもらった方が良いんじゃないかなと思う今日この頃。現時点では、原作で未使用のシナリオが存在するものの、続きがないと生かせないものもあるので、いっそのこと他の人に続きを書いてもらった方が、それらのシナリオを生かせるのではないかと思うのです。流石に、ドル箱を眠らせておくのは角川ももったいないと考えるでしょうし。


それに、いくら涼宮ハルヒシリーズが人気だとしても、定期的に話題を提供してしないとオタクは飽きて別なところへ行ってしまいます。今日は「長門俺の嫁」とか言っている人が果たして来年も同じことを言っているでしょうか。ゲームやアンソロジー的な作品を投下すればお茶は濁せるでしょうが、やっぱり原作が出ないことにはそれらは下火になっていくでしょう。せっかくドル箱が活気づいているのだから、別の作者でも良いから続きが出ないものかなと。(下巻の発売を待っているうちに、一人のオタクは白血病になり、骨髄移植を行い、いつの間にか社会復帰してしまいましたとさ。)


最後に、作中でハルヒの「雨が夜更け過ぎに雪へと変わる瞬間を見ない?」という言葉にキョンが「お前は昭和生まれか」とツッコミを入れていましたが、私が高校近くの書店で金帯がついた『憂鬱』を手に取ったときは、まだ高校1年生でした。SOS団のメンバーも高校1〜2年生だから、みくると長門は判断に悩みますが、あの時点では全員昭和生まれなんですよね。いつの間にか、暗黙のうちにSOS団全員が平成生まれになっていることで、年を取ったことを実感。やーね。


機会があったら映画館でもう一回見たいかな。


それじゃ!