古日本人における信仰の対象物について

我が家の台所には、地元の消防署からもらった「火の用心」と赤い紙に白い字で書いてある縦25cm弱、横8cm弱の紙が貼ってあります。それをみて中学生になる妹が「これってお札(ふだ)?」と聞いてきました。確かに大きさだけを見ればお札にも見えなくはないですが、どこから見ても印刷物、しかも消防署の名前までちゃんと印刷されているのだから、間違ってもお札ではないだろう、てか中学生にまでなって、これをお札と思うのもどうかと・・・。


まぁ、そんなことを考えていましたが、この頃は卒塔婆*1でさえプリンタで印刷する時代。大事なのは、祈りを捧げる対象が作られた手順ではなく、あくまで祈りを捧げる本人の気持ちなのだそうだ。


私自身は神とか仏とかは困った時と都合が悪い時にしか信じないが、確かにそれはあっているような気がする。
古代日本では全てのものに精霊が宿り、道ばたに生えている木や、そびえ立つ山、岩石までが信仰の対象となっている。今となってはそれらは単なる木、山、岩石であるが古代の人々から見れば神的なものだったのだろう。
そう考えれば単に「火の用心」と印刷された紙でさえも、お札だと思って接すればこの紙も、お札としての価値を見いだすことが出来るのだと思う。




だ・か・ら、




秋葉原とかを歩いているいい年したお兄ちゃん達がフィギュアをまるで信仰の対象のように敬愛し愛でることも認められるのではないだろうか?



・・・・。



認められねぇな。

*1:お墓の後ろに立てかけてある訳の分からない文字(サンスクリット語)が書かれている木の板